皆様こんにちは!
脊髄損傷パパことジョーカーです!
今日は前回の脊髄損傷した経緯№1の続きを話しするで~!
は~い!私とは出会う前のことやから細かく状況教えてな~!
№2ではケガ直後から関西の病院への転院までをお伝えします。
※№1をお読みでない方は先にこちらをお読みいただけると話が繋がります。
救急搬送
友人が私のところに駆け寄るとほぼ同時に担架を引っ張ったスキージェットに乗った救急隊が到着しました。あまりの速さにビックリしたのを覚えています。
後日友人から聞いた話によると管理事務所から私たちのジャンプを見ていたそうです。そして、私がジャンプした瞬間に「これはアカン」(関西弁ではないですが(笑))とすぐさま駆けつけてくださったそうです。
そして、医務室に救急車が到着し山を下っていき、近くの病院へ到着後まさかのドクターヘリへ移され病院へ搬送されました。
私はドクターヘリの中で嘔吐を繰り返し意識を失いました。
意識が戻ると既に病院で検査なども済み緊急手術を行いますと告げられ、そのまま手術室へ…全身麻酔をかけるために口元へマスクをつけられましたが、何故か私は麻酔にどれだけ耐えれるか密かに戦っておりました(笑)
手術中に目が覚め挿管されていることを知らず、息ができなくて一瞬で再び意識がなくなりました。
手術後
手術後目が覚めると一緒にスノボに来ていた友人ではなく、地元の小学校からの親友数名が関西から車で長野県まで来てくれてました。
次の日に仕事や学校があるにもかかわらず来てくれ、顔を見た時普通に振る舞うのが難しくひたすら謝っていたように思います。(意識がもうろうとしており記憶があいまいです。)
翌朝には家族が病室にいました。
私は、手術したからすぐ治ると思い「たかが骨折やのにごめんな」と言うと母親は「大丈夫やから…」と言葉を濁され、足を動かそうにも一切動かない…首と肩回りしか動かず、胸から下が全く動かず感覚もない…そうこうしている間に執刀医が来ました。
手術の結果と私自身の体の状態を説明し去っていき、初めて首の脱臼骨折による「脊髄損傷」と聞かされます。
ふと母親の言葉を濁した「大丈夫やから…」の意味に感づき、「もう治らんのかな…」そう思い感情が爆発…
初めて号泣しながら何度も「ごめんな」と謝り続けました。それでも母親は「大丈夫やからがんばろ!なんとかなるよ!」と動かない私の手を握り、何度も何度も同じ言葉をかけてくれました。
後から聞いた話によると母親は、主治医から状態を説明された後、病室の外で一人泣いていたそうです。
リハビリと転院
数日後、リハビリが始まりました。
最初は電動ベッドの頭を起こすところから始まり「起立性低血圧」を起こさない訓練でした。
地味ですが、しばらく寝たきりでいきなり起き上がると倒れるのだそうです。
そして、介助されて車いすでの移動訓練、両足に補装具をつけて立つ練習でした。
当然胸から下は全く動かない為、理学療法士の先生に抱きかかえられているだけの日々が3週間程続きました。
すると奇跡が起こりました。なんと右足の親指が「ピクッ!!」っと自分の意思で動かせたんです。
反射的なものではないか確認する為何度も動かし、母親に伝えると自然と涙が出て止まりませんでした。
私がリハビリを行っている時に、主治医から家族へ住んでいる地域への転院先を決めてほしいと話があったそうです。
住んでいる地域で脊髄損傷のリハビリを行っている病院は少なく、私たち家族にとっての候補は2つしかありませんでした。
1番有名な病院では紹介状だけを見て「歩くことは一生無い。車いすと介助が必要です。」と言われ医学的には正しいとは思いつつも、本人の状態を見ようともせず、突き放された口調に苛立ち家族から願い下げだったそうです。
そして、もう1つの病院へ相談し「一生歩けない可能性が高いことは事実です。リハビリでは日常生活を送れるようにします。」と正直内容は1つ目の病院と変わりませんでしたが、まだ対応が普通だったためそこに決めたそうです。
そして、長野県の病院で約1か月リハビリを行い救急車に乗って転院先の病院へ行くことに決まりました。救急車内でも便失禁してしまったり約8時間ほどかけて到着しました。 <続>
私にはわからん苦しみを味わい、苦しみの中本当に頑張ったんやな~!
その当時はがむしゃらにやってた!歩くことしか考えてなくて!
ただ…両親には健康な体に産んでもらい育ててもらったのに自分が馬鹿な事したせいでってずーっと思ってたな~!
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